【エッセイ/物語】ゲーム「ファークライ5」 FPSゲーマーが踏み入った楽園、もしくは地獄

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 このゲームのPS4版をクリアして間もない頃、こんなタイトルで思いの丈を語り尽くしてやろうと意気込んでいたのだが、ゲーム作品を語るなら少なくとも2~3週くらいはきっちり遊び尽くしてからじゃないと失礼だろうなんて思ったりもしているうちに熱が冷めて結局一度流れた。はっきり言って、この作品に限っては2週もやろうと思えない。つい最近割とハイスペックなゲーム用PCを新調したので4K60FPSでもう一度味わってやるぜ!などと思い再びPC版を遊んでみたのだが、画質は最高に綺麗な上PS4版の2倍のフレームレートでヌルヌル動いて快適極まりなかったものの、どうにもモチベーションが上がらない。数時間遊んでみたものの、結局アンインストールしてしまった。

 

 そんな中、最近漏れ聞くところによるとあのドラゴンクエストの映画化作品が公開後間もなく大炎上しているという。ゲームの映画化なんて生まれてこの方ほんの一握りしかまともなものを見たことがないので、まぁいつものことだなぁとは思いつつも、何とはなしに理由を調べてみると、成る程、今回に関してはファンの逆鱗に触れるのも無理はないものと思えた。

 今となってはドラクエファンも中々年季が入っている方が多かろうに、散々ソフトを買い支えた挙げ句の果てに大してビデオゲームを好きでもなさそうな、けれども映画を撮ることだけは上手いどこぞの監督にこんなものを作られ見せられたのではたまったもんではないだろうと少々同情の念を感じつつ、一方でよくも商業作品でこんなえげつないことやるよなぁとある意味感心。ところがどっこい、あったんだね。もっとえげつない作品が。そう、ファークライ5である。この作品に比べたら、映画版ドラクエの「大人になれよ」なんてのは小学生のかわいい戯れ言程度のものだということを今回改めて思い出すに至って、やはり引きずってるなぁ、これは一度よくよく考えてみないといけないテーマだなとしみじみ感じ入ったため、つらつら書き連ねてみることにする。今回の主題は言うなれば「創作に対するニヒリズム(虚無主義)」について。更にはそれは克服できるものか、どう克服すべきかといった辺りを、ファークライ5(以下FC5)やその都度関連作品を題材にしながら書いていくつもりだ。(追記:結局そこまでは書けなかった。というか答えが見つからなかった。)わりかし抽象的で長めのお話になるかもしれないので、本作の素晴らしい楽曲をBGMにでもしながら読んでもらえればと思う。こちらは本作のタイトルテーマ曲。アメリカ南部の長閑な田舎によく似合う、ゆったりとしたカントリー調の曲だ。

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前述の通りFC5については一度書こうとして挫折したのだが、今回の記事もまた書き始めてから精神的にしんどくなり、数ヶ月放置の末強引にまとめ上げた。いや、まとまってはいないが打ち切り完結させた。それでもかなり長くなってしまったので、目次などを利用して何度かに分けてお読み頂ければと思う。基本的に作品の感想というものは、好きなものについてだけ書こうと決めているが、今回は「良薬口に苦し」、もしくは「忠言耳に逆らう」とでも言えるようなものを感じた次第なので、特別回である。

 

本文文字数:14553字

読了目安(1分間500文字換算):約29分

 

 

 1.「ファークライ5(FC5)」について

  まず、本作プレイ済みの読者には蛇足ではあるものの、未プレイの方、そもそもビデオゲームをあまり嗜む習慣のない方に向けてざっと本作の内容やビデオゲーム界隈における位置づけのようなものを紹介していく。既に詳しく把握しているゲーマーは毎度の事ながら飛ばして頂いて結構。

  FC5はフランスのUBIという大手ゲームメーカーが2018年に発売したシューティングゲームで、シリーズとしては10年以上の歴史がありビデオゲームとしては割と古参ブランドである。3作目の「ファークライ3」で優れたゲーム性・ストーリーにより評価が高まり、それ以降は3の作風を維持しながら毎回手を変え品を変え、といった具合だ。シリーズの売り上げは好調で今後も続編は作られていくだろう。

 FCシリーズは毎作舞台も登場人物も全く異なるが、5は大ヒットしたためか最初から計画済みであったのか知らないが、ストーリーが地続きの続編「ファークライ ニュードーン」が作られている。作品のテーマが異なっていること、主要なシナリオライターが異なることから「5」と「ニュードーン」はストーリー面においては異質な作品であるように感じるので、今回は5のみにて物語として完結しているものとして書き進めていく。個人的に続編の「ニュードーン」は、ゲーム業界でよくある素材流用の拡張パック商法、かつ完結した作品にありがちな陳腐な脚本の蛇足続編といった評価であるので特に語ることはない。

 本作の大体の物語としては、アメリカ合衆国モンタナ州にあるホープカウンティ郡という架空の土地のお話で、そこに巣くうカルト教団と悪徳教祖をぶちのめせ!そんな感じである。今回の話においては、大体その程度の把握でも十分であり、あえて付け加えるならばこれはFPSゲームなので主人公は銃と暴力を以てしてこの目的を果たそうとするということくらいだ。

 ゲームに詳しくない人へ向けて補足しておくと、FC5はビデオゲームとしてはFPSというジャンルに属するものである。FPS(ファースト・パーソン・シューティング)とは分かりやすく言えば、自分の視点(一人称)で銃を撃って遊ぶゲームのことだ。キャラクター自身の視点で進めていくFPSの利点は、ずばり没入度の高さにある。プレイするキャラクターと同じ視点で仮想世界を動き回ることで、プレイヤーの意識はキャラクターと同化し、自分自身を投影してより高いレベルでゲームの世界に没入できる。俯瞰で進むTPS(三人称視点)が人形をラジコンで動かしているような感覚であるのに対し、主観で進むFPSは自分自身がゲーム内世界を駆け巡っている感覚に近い。このFPSであるということが今回は結構重要なのだ。FPS作品では往々にして、主人公はプレイヤー自身の分身である。今作においても、主人公はルーキーと呼ばれるだけで性別から容姿から全て選択可能でほとんど無個性だ。つまりは今作のルーキーはプレイヤー自身であり、ルーキーの行いはプレイヤーの行いそのものであると言うことが出来る。

 FC5はシリーズ最高のヒット、売り上げを記録したということだが、意外と評判は良くない。その理由はゲーム性に関するところが多く、シリーズの大きな分岐点となった3以降、ナンバリング以外の外伝を含め4作も作られているのだが、3の時点である意味ゲームとして完成され過ぎてしまっていたせいで、その後シリーズを重ねる度マンネリ感が高まっていくという問題があった。やることが毎回ほとんど同じなのだ。これに関してはFPSというジャンル自体が銃をぶっ放して敵を殺すという点でどれも似たり寄ったりで仕方がないものとも思える。

 一方でゲーム内のストーリー進行に関しては本作特有の問題があった。このゲームはオープンワールドゲームと言われる類いのもので、地続きの広大なマップを縦横無尽に駆け回り、マップ上の様々なコンテンツをプレイヤーの自由な順番で攻略していくことができる。その自由度の高さがオープンワールドゲームの売りであるのだが、本作においてはプレイヤーがマップ上の敵拠点などを攻略しているとポイントが貯まっていき、それが一定値に達するとプレイヤーは強制的に敵勢力に拉致され、ストーリーが強制進行するというシステムになっている。これがかなり評判が悪い。好きな順番、タイミングでゲームを進めていきたいと思うプレイヤーの意思とゲームシステムが全く噛み合っていないのだ。オープンワールドゲームの大御所、GTA(グランドセフトオート)やTES(エルダースクロールズ)などではクエストが始まる場所に行かない限り物語は進まず、プレイヤーは安心して思い思いに道草を食えるのに対し、本作は自由なオープンワールドゲームにおいてルートを強制されているような感覚を引き起こし、そういった自由を求めて本作の中に飛び込んできたプレイヤー達は期待を裏切られて少なからず苛つかされたという訳だ。これに関しては、かなり意味深な演出なのでキリスト教なんかと絡めた演出上の意味などもありそうだが、個人的には割とどうでも良い話なので割愛する。まあ、演出上どんなに深い意味があっても、それがゲーム自体をつまらなくさせているのならばその演出は失敗であり、それは映画その他の創作においても同じことなので、擁護の必要性もあまり感じない。

 このようにプレイヤー達はストーリー強制進行に苛つかされながらも数十時間かけてゲームを進めていくのだが、大体20時間くらいでゲームクリアまでたどり着くことができる。そこでプレイヤーが見ることになる物語の結末というのがまた、なんとも後味が悪い。大ぼら吹きだと思っていたカルト教祖の言っていたとおりに世界の終末=核戦争が始まり、やっと救い出した仲間は皆死んでしまい、最後には閉鎖された核シェルターの中には生き残ったカルト教祖と主人公だけが取り残され、この先ずっと二人きりで生きていかなければならない...となったところでスタッフロール。

 色々な不満を抱えながらも一流メーカーならではの快適なゲーム体験に後押しされゲームを進めてきたプレイヤーのうちいくらかは、このときやっと自分の感情に確信を持ち、このゲームに「クソゲー」という烙印を押し見切りを付けて忘れ去ろうとする。このストーリーも評判を下げる一要因になっているかもしれない。そのあまりの救いのなさを払拭するために、しょうもない続編が作られた可能性もある。ただ私はこの作品の物語に関しては、むしろかなり優れた脚本であると評価しているし、この作品の評価を更に上げるものであり、この作品が語られるにあたって最も重要な要素として挙げられるべきものだと感じている。そうでなければわざわざこんな記事を書かない。今回はなぜFC5がこのような物語をプレイヤーに提示したのかについて掘り進めていきたいと思う。

 

やっと2合目といったあたりだ。ここいらでレコードチェンジとしよう。

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2.物語が孕む問題点

 FC5の物語は一見、かなり分かりやすいモチーフによって形作られている。閉鎖的な田舎町、イカれたカルト教団・その教祖と対立する保守思想の濃い地元民・プレッパー。「プレッパー」というのは準備するのprepareから来ている言葉で、核戦争や大災害など、世界の終末に対して過剰な被害妄想とさえ思えるような危機意識を抱いており、それらに備えて日々生活している自衛意識の強い人々のことを指す。自宅に核シェルターを作り、銃や食料品・物資などを貯め込んで世界の破滅に備えているような人々だ。どうかしていると思うだろうか。アメリカには実際にそういった人々が数こそ少ないが実在する。カルト教団の方もアメリカに実在する/した幾つかの新興宗教団体を面白おかしくコラージュしたような、まさにカルトの典型的な存在として描かれる。この物語に出てくるモチーフは、どれも敏感な社会問題の題材となりそうなものでありながら、そのどれもがそこまで深掘りされることもなくただ物語の記号として機能するに留まっており、実のところ、その見た目ほどには宗教の教義やら、プレッパーの思想やらにそれほど深入りする必要は無く、ある意味で浅い設定ではある。危険なモチーフが組み合わされているのを見て、相当アブナイお話なのかと思いきや、皆が予想する方向に関しては意外と無難に収まっており一安心、と思いきや、代わりに本作は別の角度から致命的な顔面右ストレートを叩き込んでくる。

 

 予想外の攻撃により、プレイヤーの脳しんとうの原因となった物語の結末について掘り進めていこう。まず、FC5は物語の王道である勧善懲悪を無視している。インチキ教義を掲げて町を虐げるカルト教祖を殺してめでたしめでたし、となるはずであったのが、教祖は生き残り、仲間は死に、しかも教祖の言ったとおりに核戦争が起きることで、結果的に信者達に核シェルターを作らせていた教祖は本当は正しかったのではないかと思わされる。つまりプレイヤーは自分の方が間違っていたのではないかと疑うことになる。しかし、ビデオゲームの物語というのはプレイヤーが自ら作り出すのではなく、用意されたものをなぞっていくだけのものなので、指示された通りに敵を倒して話を進めた結果「お前が間違ってたんだぞ。そのせいで世界が滅びたんだ」と言われたら、面食らったプレイヤーは混乱の後、しばしの間を置いてふつふつと怒りが湧き上がってくるのが関の山だ。このような作品を味わった後に「ふざけんなクソが!」と内心で悪態をつく権利ぐらいはプレイヤーにも保証すべきだろう。

 

 また、本作は娯楽作品としての目的を半ば放棄しているのではないか、とも思えなくもない。娯楽作品、特にビデオゲームというエンターテインメント性の強い大衆娯楽においては、アーティスティックなインディーズ作品などを除きあらゆる商業ゲームは(建前としては)人々を楽しませ、満足させることを目的に作られるべきである。金が稼げりゃ何でも良いんだよなんて声もあるだろうが、そもそも満足できないものに人は金を出さない。要するに購入したプレイヤーを不快にさせるような作品というのは、そもそも娯楽作品としてどうなの?という話だ。映画でいったら、例えば「ファニーゲーム」などは商業作品であるが娯楽作品と言えるのか、少々疑問だ。(あれを素直に楽しめるというのは相当に性格がねじ曲がった批評家くらいだろう)この点に関しては、(ⅰ)創作におけるメッセージ性という観点と、(ⅱ)ファークライの立ち位置の特殊性という二つの観点で書いてみたいと思う。

 

 (ⅰ)については、ビデオゲームだって小説、映画、漫画やアニメーションなどと何も変わらず、やはり物語を提示する以上作り手は少なからず伝えたい思い・メッセージというものがある。それを説得力のある形で伝えるために苦労して無から有を生み出し、それを繋ぎ合わせて物語を構築し、大事なメッセージを作品に込めるのであるから、本当に重要なのは単なるプロット(話の原因・結果)ではなく、むしろ作り手の伝えたいメッセージの方であり、それが価値のあるメッセージであるのなら主人公が死のうが、ヒロインと破局しようが、悪の親玉がのうのうと生き残っていようが許されるのである。そのため不必要な形で登場人物が殺されたりすると鑑賞者は怒り、逆に物語上の必然として死が訪れるのならば名場面としてその記憶に残るわけだ。このことは最近の映画作品、SW:EP8のルークの死に方についての世間の反応などを少し見て貰えばよく分かると思う。

 そうすると、本作の結末も脚本家の伝えたいメッセージをプレイヤーが受け取るために不可欠なものであったのならば、それが多少は不愉快な内容だとしても甘んじて受け入れ、認めるべきだろう。別に認めなくても良いが、支離滅裂な脚本だとは言うことは出来なくなるだろう。この点、本作の結末はプロローグから連なる一貫したテーマの最後のピリオドとしてふさわしく、凡庸な創作にありがちな逆張りのための逆張りやら、安易なハズシ(=意外性)などとは一線を画す論理的で納得のいく展開である。だからこそ、その一貫したメッセージが尚更にクッキリと浮かび上がり、それこそが本作最大の問題点となる。FC5の物語・演出は作者のメッセージを伝えるという点において、完璧なまでにその役割を果たしていると言える。前述の映画版ドラクエなどは、この点完全に失敗しているようだ。本当に伝えたいことを伝える前に鑑賞者を失望させてしまっては元も子もない。獲物というのは引き付けて引き付けて、最後にグサリが効果的なのだ。

 

 次に(ⅱ)ファークライという作品の特殊性についてだが、FC5のストーリーは確かに王道を外れ、不愉快にすら感じるものではあるものの、元々本作の周辺にはそうした物語が許されるある程度の土壌が備わっていた。元々ファークライ3というのが暴力ゲームに対するアンチテーゼを暴力ゲーム自体の中で提唱するという中々革命的な作品で、非現実の無人島で段々と暴力の快感にのめり込んでいく主人公の若者を通してビデオゲームのプレイヤーを皮肉った、商業作品としては割と命知らずな作品であった。しかしこういった勇気ある大手の商業作品はそれまでほとんど存在しなかったためその優れたメッセージ性にFPSファン達は感心し(たかしないか知らないが、少なくとも批評家などは喜び)、以降ファークライシリーズに一目置くようになる。大作FPSの皮を被った反戦主義者のような、ゲームとして抜群に面白いが一筋縄ではいかないちょっとアブナイ作品といった感じで、ファークライの新作が出る度に「面白いから買うけど、まぁ今度もただのFPSではないんだろう」という予測のもと、既知のプレイヤーはある程度の覚悟をもって購入し、未知のプレイヤーは何も知らずに爽快感のみを求めて面食らうのである。

 3以降のファークライシリーズというのは言わば、甘い匂いで虫を誘う食虫植物のようなものだ。それでいてそのタイトルを冠する以上「罠ですよ~」と自ら宣言してもいて、それでも売れるというのは数十億の予算と最新の技術を投入して作られた極上のFPSゲーム体験というゲーマーが喉から手が出るほど欲しい蜜があるからこそで、ゲーマー達は無条件に銃をぶっ放させてはくれないことも承知しつつやはりその蜜を吸うために飛び込んでしまう哀れな虫なのだと言えなくもない。

 こうした作品の特殊性が、FC5 に王道の娯楽作品から外れた捻くれた物語を提示させることを許してはいるのだが、今回に関してはそれにしてもあまりにも娯楽鑑賞者としての感情・本能に反する展開を見せられて、ゲーマー達は沢山甘い蜜を吸ったはずなのに思ったような充足感を得られず、結果として後味の悪さだけが残ってしまったという感じではないかと思う。というのも、ファークライ3当時における暴力ゲーム・ゲーマー批判というのはFPS体験という蜜の味を台無しにするほどの苦味はなく、プレイヤーはFPS体験だけに目を向ければその苦味を無視して楽しみ続けることも出来た。しかし今作ではメッセージがさらに先鋭化されたというか、その威力を増したためにプレイヤーがそれを無視してシューティングのみを楽しむなどと言うことは到底出来なくなってしまった。出来るとすれば、それはイベントムービーなど全てスキップするかトイレタイムにしていたプレイヤーぐらいだろう。ストーリークリア後もゲームは続きプレイヤーは残った敵の残党などを自由に潰すことができるが、「お前がやってきたこと全部間違ってたんじゃないの?」と言われた後で、何の呵責も感じずに心置きなく教祖を信じる敬虔な信者達を虐殺できるだろうか。スクエニの「ニーア」シリーズでは二週目以降敵の話している言語が理解できるようになり、プレイヤーは罪悪感を覚え物語への視点が180度変わってしまうのだが、今作のクリア後の感覚はそれに近い。

 以上をまとめてみると、ファークライという作品の特殊性を以てしても、今作においてはメッセージのフレーバーが強烈過ぎて、FPS体験という甘味物語の批判的メッセージという苦味のバランスが崩壊しいわゆる「不味いクソゲー」に片足を突っ込みかけたといったところではないかと思う。(世の中には旨いクソゲーというのもある。)個人的には、本作は周回をする気が全く起きないだけで1周して楽しむ分には素晴らしい体験であり、文句なしの良作であると思う。映画などで考えれば皆さんもおありでなかろうか、二度と観たくはないが、一度は観た方がいいと思うような作品が。「火垂るの墓」とか、「レクイエム・フォー・ドリーム」とか、本作もあんな類いの作品だろう。

 

 ここまで読んでくたびれただろうか、申し訳ないがここからが本題である。違う曲を流して気分転換と行こう。こちらは本作マルチエンディングのうちの一つで流れるエンドロール曲だ。クリアした上で改めて聴くとなんとも言えない気分にさせられる。PCブラウザで閲覧している方は、動画上で右クリックをしてループ再生を選ぶとずっとリピート再生されて便利である。

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3.物語に込められたメッセージ:鑑賞者視点

 FC5のストーリーはヤバいということをくどくどと長ったらしく書いてきたわけだが、じゃあずばり、どうヤバいのかという話に入っていく。このシリーズの3作目以降、ゲーマー・FPSプレイヤーに対する批判的メッセージというのは様々な形で織り込まれてきた訳だが、私が感じた限りこと今回に至っては、もはやその対象はゲーマーのみに留まらない範囲にまで拡大化してしまい、創作物・創作者・鑑賞者といった三位一体の関係を脅かすレベルまで到達しているように思える。つまりは、冒頭で言った「創作へのニヒリズム(=虚無主義)」にも近いようなメッセージと化してしまっている点で、かなり危険であり、ヤバいのである。創作ならば、映画だろうが小説だろうがゲームだろうが関係ない。その上作る側にとっても、観る側にとっても相当にヤバい。詳しく説明していく。

 

 FC5の物語は結末ばかりに目が行きがちだが、それは唐突に思えるものの実際は物語の始まりから予感され、周到に導かれた末の運命である。 

 まず教祖の予言通りに世界の終末=核戦争が起きたという点について、これは教祖に超能力があったという見方もできるが(続編などはその視点だろう)、本作に置いては別にそういう安易な奇跡やらデウスエクスマキナ(=どんでん返し理論)を持ち出さなくとも説明が付くようになっている。何故ならば、FC5の世界というのはまさに核戦争寸前の非常に不安定な国際情勢にあるということがゲーム内の描写をよく観察することによって分かるようになっているからだ。

 実はクリアには必須ではないゲーム内のラジオ音声や文書などを読み解いていくと、世界中で紛争や対立が起こり、日に日に戦争の危機が高まっていることがうっすらと分かるようになっている。これはカルト信者との楽しい撃ち合いに忙しくしていると中々気づけない部分なのだが、ふと立ち止まり、ゲームの世界=ホープカウンティで起きている出来事に耳を傾けてみるとその世界を取り巻く状況というのが把握できるようになっている。その上で改めて人々を見てみると、終末思想を説くカルト教祖も、過剰に自衛するプレッパーたちも、このゲーム内世界においてはあながちただの被害妄想に囚われた夢想者という訳でもないことが分かってくるのだ。我々の居る現実に即して考えたら頭のおかしい奴らだが、彼らの存在しているゲーム内世界においては彼らは非常に合理的に危機意識を持ち核戦争に備えているのだと見ることができるのである。

 町自体は架空なものの現代のアメリモンタナ州を舞台とするなどわざと現実に近い舞台設定になっているのは、プレイヤーを錯覚させるための意図的な演出だ。プレイヤーがこの錯覚から抜け出し真実を見つけるためにはゲーム内で聞こえてくる声に耳を傾けなればならない。それは民家の中にさり気なく置かれるラジオや新聞であり、そして何より敵だと思っている者が語りかけてくる言葉なのである。物語の冒頭で教祖は主人公に何度も「引き返せ」と呼びかけてくる。残念ながらその意味がやっと理解できるのは、ほとんどのプレイヤーにとって全てが終わってしまった後となる。

 

 物語の始まりは教祖の逮捕から始まり、その時にプレイヤーには最初の選択肢が与えられる。「教祖に手錠をかけるか、かけないか」という選択だ。とはいえ、これは初めて本作をプレイしたプレイヤーにとって実質的に選択肢とはならない。手錠をかけたその瞬間からFC5の興奮に満ちた血生臭い物語は始まるのであり、プレイヤーはその物語の中に身を投じて戦いの興奮に心を委ねるためにゲームソフトを購入したのだから、実際には数分間ボタンを押さずに放置していると手錠をかけずに立ち去るという選択肢があることなど頭の片隅にも思いつかない。教祖に手錠をかけるためにAボタンを押すという行為は、単なる物語の導入の儀式としか思わないわけだ。しかし実は、この行為こそがこの物語において他のどんな瞬間よりも重要な分岐点であり、殺戮と平和の境界線なのである。

 ここで手錠をかければ教団と主人公らは敵対し、この先核戦争が始まるまでの間壮絶な殺し合いを続けることになる。しかし手錠をかけなければ、そのまま主人公達は引き下がり誰の血も流れることのないまま物語は平和に幕を下ろすことになる。実はこのゲームは開始数分でハッピーエンドに到達することが出来るという作品なのだ。ファークライ4でも同じような演出があったが、それは隠し演出のような趣があった。しかし今回は通常プレイした末の正規エンディングが余りにも悲惨な結末であるが故に、むしろこの隠しエンディングこそが本当に相応しいハッピーエンディングであるかのようにすら思えてくるのである。そしてその隠しエンディングでかかるのが、先ほどリンクを張った楽曲である。なんと平和な曲調か。

 

 しかしここで当然の疑問が湧き上がる。たとえプレイヤーが手錠をかけずに引き下がり誰の血も流れず物語の幕が閉じたとしても、この物語世界=ホープカウンティが核戦争前夜にあるという事実は変わらない。プレイヤーがカルト教団と戦おうが、和解しようがどっちにしろ間もなく世界は滅びるじゃないか、それなら約束されたバッドエンドであり、救いようのないお話ではないか。・・・だが、そうではない。何故ならば、物語がエンディングを迎え幕を閉じればそこで物語は終わるからである。ちょっと何を言ってるか分からないと思うが、ここからが重要な所なので、注意深く書いていきたい。正直上手くまとまるか不安である。

 物語が紙の本に書かれたものだとして考えてみると分かりやすい、かもしれない。あなたが頁を開き、活字を追う度に物語は進行していく。その間あなたの脳内で物語世界は確かに存在し、動き続けている。しかしあなたが何らかの理由で本を閉じた時、そしてもう二度と開かないことを決めたとき、その物語はそこで終わる。たとえ頁の続きがあるとしてもないとしても、作者によって書かれた続きのストーリー展開があるのだとしても、あなたの中ではその物語は終わるのである。なぜならば、物語は誰かに読まれ、聞かれ、想像されている限りにおいて存在できるからだ。(今度は子どもの読む飛び出す絵本をイメージして欲しい。読むために開けば物語が立体となって現れるが、閉じればただの薄い紙の束である。)人間の想像力によって作り上げられた物語という創作物にはその程度の存在力しかない。ではこれを逆にして言ってみる。あなたが物語を読み進める限りにおいて、その物語は続くのである。私が何を言わんとしているか分かっていただけるだろうか。つまりは、あなたが物語を鑑賞し進行させるから、物語世界の人物は幸福にも不幸にもなるということだ。「いやいや、それはおかしい。その物語を書いているのは物語の作者で、それを読んでいるだけの自分には何の責任もない」と思うかもしれない。しかしこの点こそ、本作の物語が鑑賞者へ突き付ける鑑賞者自身の死角/盲点であり、それがビデオゲームという、物語と鑑賞者が相互に働きかけるインタラクティブ(=双方向性を持った)な娯楽においてはより顕著に浮かび上がってくる。

 

 上記の屁理屈を本作に当てはめると、「プレイヤーが物語を進めない限り、世界は滅びず物語は平和に終わる。プレイヤーが物語を進行させたから世界は滅び、みんな死ぬ。」ということになる。まあ釈然としないだろう、謂われのない冤罪で責め立てられているような気分になってくるはずだ。では今度は鑑賞者から創作者の立場に視点を移し、なぜこのような物語を提示するに至ったかに考えを及ばせてみたい。

 

4.物語に込められたメッセージ:創作者視点 

 物語の作者というものは宇宙までも飛び立てるような素晴らしい想像の翼を持っているであろうが、かといって完全に自由というわけでもない。鑑賞者が作品の筋書きと作者の意図に縛られるように、創作者もまた鑑賞者の意図に縛られる。自分でどんなに素晴らしいものを作ったと自負しても、それが独りよがりの自慰的産物、いわゆるゴミであると世間に認められればそこで創作物の相対的価値は無くなる。つまりそれは金にならない。

 あらゆる創作は、それが経済的価値を持とうとするのならば、何らかの需要に応えなければならない。それがビデオゲームという型の娯楽にパッケージとして載せられる物語だとしたら、それはビデオゲームの物語として相応しいものでなければならない。例えば「ノルウェイの森」がどんなに素晴らしい物語の小説だとしても、それで映画は作れてもFPSゲームは作れない。シューティングゲームは何かを撃ち殺して物語を進めて行かなければならない。そうでなければシューティングゲームではないからだ。かといって、ただ意味も無く主人公が銃を乱射しているだけではただの異常者である。頭のイカれた殺人鬼に成ってみたいと思う人はそれほど多くない。物語を鑑賞しながら、その物語に自分自身が干渉して影響を与えるという双方向性を求めてビデオゲームを楽しむゲーマーを満足させるためには、彼らが気持ちよくゲーム内世界に没頭できるだけの設定が必要なのだ。ビデオゲーム内に表示される人間のような形をした3Dモデルに命を吹き込み、CGの建物や土地に歴史を与え、プレイヤーが何かを撃ち殺さなければならない程の深刻な状況が起きつつある世界の物語を紡がなければならない。

 例えバーチャルの世界の中であろうとも常識的な人間というものは、何の理由もなく他人を平気で殺戮するということを躊躇する。そこには何らかの正当性が必要だ。その正当性を担保するのがビデオゲームにおける物語/設定の主要な役割の一つであると私は考えている。つまりは、ビデオゲーム、取り分けFPSゲームにおいて物語とは、ゲーム世界でプレイヤーが破壊や殺戮に心置きなく、後ろめたさを感じること無く没頭するためのお墨付きを与えるために添えられている。物語とはプレイヤーにとってのある種免罪符なのであり、それは仮想とはいえ過激な暴力を行使できる娯楽を提供する側である制作者/販売者にとっても同様に機能する。何の物語・設定もなしに、ただ無意味かつ過激に人を撃ち殺していくだけの商業ビデオゲームなどまず作ることは出来ないし、そのような存在が許されることもない。(かつては「Postal」、最近だと「Hatred」など一部にはそういった作品は存在するが、大きな商業的成功を収めているわけでは無く、社会的受容度もやはり低い)

 この点を突き詰めていけば、人間が空想の物語を消費するのは何らかの欲望を疑似体験の中で解消しようとするためである、と言うこともできる。であれば、以上の定義がビデオゲームに限らず、小説、映画、ドラマ、演劇等その他全ての創作物についても同じように当てはめ得るということは分かっていただけるかと思う。

 

 このような物語の一般的な役割を踏まえて、改めて本作の物語と向き合ってみると、それは確かに住民を虐げる悪のカルト教団と戦う主人公をプレイヤーに演じさせるのであり、銃による殺戮への免罪符として表面上は機能しているように思える。

 しかし同時にゲーム内に注意深く配置された数々の演出を結び合わせていくと、そうした表面的な設定を免罪符にして殺戮を楽しむ自分自身を正当化しようとするプレイヤーに対しての自らの行いについて静かに詰問しているようでもある。

「この物語は進めていけば最後は世界が滅ぶしみんな死んでしまうが、戦わないことを選べば平和の道を歩むことが出来るようにした。しかしあなたは戦いたくてここに来たのだから、決してそれを選ばずに銃を取ることだろう。それはこちらもよく分かっているから、最高の舞台はきちんと用意してある。ただ一つだけはっきりさせておきたいのは、あなたは正義のために戦っているのではなくて、殺したいから殺してるだけだ。その証拠に、敵を殺して誰かを救う行為なら進んで行うが、最初から最後まで一切誰も死なない平和な道には決して納得しないだろう。」

 

 こうしたメッセージの矛先は必然的に、諸刃の剣のように創作する側にも突き刺さることとなる。プレイヤーを楽しませるため、殺戮をゲームを進行させる唯一の原動力として作られるしかないFPSゲームの宿命、さらにはそうした作品における免罪符としての物語を書くことについての虚しさや諦め、これぞまさにニヒリズムである。これがビデオゲームに門外漢の映画監督などが書いた脚本ならまだしも、ゲーム業界に深く関わったベテランライターによって書かれたものであるが故に、余計に考えてしまうところだ。「まあお仕事だからやりますがね…」というやつである。これは憶測だが、単なる面白おかしい脚本のためにこうした物語を書いたのでは無いと思う。メインライターのうち一人が過去に担当した「バイオショック:インフィニット」というFPS作品でも、その複雑なストーリーは突き詰めれば「全ての登場人物にとって物語を始めないことが最善」と言うところに行き着いてしまうようなものだった。

 

 

 

5.楽園、もしくは地獄

  数千円を払ってわざわざ自分の内なる欺瞞を糾弾されたいなどと思う人間はあまり居ないだろうから、こうしたメッセージを潜ませることは商業作品としては危険な行為だ。元から少なからずそういうもんだと思われているファークライだからこそ許されるのかもしれないが、例えこのシリーズだとしても今回については格別危険である。何故かって、果たしてこの大量消費社会において創作物に関してこれ以上危険なメッセージがあるのだろうか。

 

「物語は人の欲望を満たす疑似体験のために作られる。だから物語に出る登場人物達は徒に死んだり不幸になったりするが、それは人が物語を消費するせいである。彼ら(物語世界内の人々)にとっては物語なんて始まらないほうがよっぽどましであり、本当に彼らに感情移入して幸せを願うならそもそも物語を消費しないことこそが最善の道である。」

 

 別にシナリオライターはそんなこと言うつもりは更々ないのかもしれないし、毎度ながらの単なる私の曲解である可能性が限りなく高いのだが、少なくとも今作のストーリーは地球上の77億分の1人にそう思わせるだけの熱量を持っていた。やはり能動的に作品に関わるビデオゲームという媒体だからこそ、より強く感じられた気がする。

 正直なところ、仮にこうしたメッセージを投げつけられたとして、それにどう反論すべきか、そもそも反論すべきなのか、1年以上考えているが今のところ明確な結論を得ていない。よってそのままでは結論の無いレビューとなってしまうので、今まで中々書き進めることを躊躇していた次第だ。まあでもとりあえず、ファークライ5という作品のストーリーはこのように捉えることも出来なくも無い、というある極端な視点を示しつつ、このような駄文を最後まで読んで頂いた皆さんに私が勝手に「創作へのニヒリズム」などと名付けたこの心のもやもやについて少しでも思いを馳せて頂けたら、そして映画でも文学でも漫画でもゲームでも何でも良いが、そうしたこの世の物語作品とのより良い関わり方を見つけていくほんの切っ掛けとなってもらえれば幸いだ。と言いつつ、この文章を読んだ人が私と同じような悩みを抱えてしまう事への心配もある。正直なところ、こういうことをしっかり考えるようになってからは以前のように物語を素朴に楽しく消費できなくなった。

 

 結びに、改めて本作の舞台ホープカウンティとは一体何なのか考えてみる。それはビデオゲーム内の仮想現実で、プレイヤーが極上のシューティング体験を味わうために用意されたFPSゲーマーにとっての楽園でもあり(少なくともゲームデザイナーはそう作ろうとした)、または約束された悲劇の運命の中で、報われることのない殺戮が(ニューゲーム+によって)永遠に繰り返されるよう定められた地獄のようでもある。楽園なのか地獄なのか、それとも楽園でありかつ地獄でもあるのか。 どれにせよ、我々プレイヤーにとってはアンインストールさえすればこの世界から解き放たれるということが、何よりの幸いであるのは確かだろう。