【エッセイ】映画「フューリー」を観る。良心、父子、家。

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 戦車ロマンが爆発してるミリタリーマニア向け映画なのかと思っていたが、良い意味で予想を裏切られた。多少のヒロイックさはあるものの、戦争の目を逸らしたくなるような醜い部分も、一方で否定できない心躍る楽しい部分もきっちり両面描き切っていた。連合国が正義とかナチが悪とか、そういう矮小化した描写に陥ることなく、戦争そのもの自体について中立的な描き方をしていた印象。前に「1917」を観たときはあまりにも映像美が過ぎていて、「おいおい、戦争を出汁にしてこんなアーティスティックなもの撮っちゃって大丈夫か」と少し心配になったけど、こちらはその点バランスが取れていた。

 

 公開時の国内宣伝ではやたらと戦車を前面に押し出し騙されたが、別にそれほど戦車映画という訳でもなかった。

 

 この物語では「良心」というものが一つ大きなテーマだった気がする。

 自分は良心を守るために人を殺したくないと言うノーマンが、白リン弾で焼かれた兵士を自らの意思で撃ったのは良心から来る慈悲によるものだった。エマを殺されて敵兵士に憎しみを抱いたノーマンも、最後は心あるSS隊員の慈悲により命を救われる。エマを殺された後のノーマンは「マシン」というあだ名を付けられ、慈悲無く敵を殺戮する「兵士(戦争機械)」へと生まれ変わりそうになったが、最後はあのSS隊員(きっと彼も間もなく戦場で殺されただろう)のおかげで、そして軍曹のような心ある人間の下で戦ったおかげで恐らく「人間」として踏みとどまれたような気がする。

 劇中の印象的な白馬は、途中の馬にまつわる会話から見るに、良心の象徴のような存在なのだろうと思えた。

 

 ブラピ(軍曹)とノーマンの父子みたいな関係性も物語に深みを与えていた。あだ名がウォー”ダディ”だし(これはアメフトの主力選手を指すスラングらしい)、ノーマンとエマに気遣ってわざと上半身脱いでみたり(ついでに「二人は若い、そして生きてる」とか言ってみたり)、もうお前完全にお父ちゃんだろと。序盤で無理矢理敵兵を撃たせるのも、躊躇無く撃てるようにならないとノーマン自身が殺されてしまうし仲間も危険にさらす。それに何より、ノーマンの様な若い兵士がその優しさや弱さのせいで沢山死んできたのを嫌というほど見てきたに違いない。あのある意味”筆おろし”的な行為も、父として息子に(自らも苦しんでいる最中の)厳しい現実をたたき込むシーンだった。多分観客はみんなノーマンに感情移入してブラピ酷い!と思うシーンだけど、観ながらパパの心中お察ししあそこで不覚にも泣いてしまった。

 

 長年従軍してきた軍曹にとって、戦車は自分の「家」であり、在るべき場所であり、仲間も皆家族同然の存在だったのだろうと思う。単なる戦車に対する愛着とかそういうものではなくて、もっと実存的な何かだったように思う。本当は誰よりも信仰に篤く良心を持つ者として、誰よりも戦争の中で良心の呵責に苦しんでいるはずの軍曹が、何とも言えない表情を浮かべながら「ここが大好きだ」というシーンが全てを物語っている気がした。

 

 題名の「FURY」は激怒なんて意味だが、この言葉はローマ神話の復讐の女神フリアエから来ている。劇中でも彼ら兵士の激しい怒り(殺意)は復讐心によるところが大きい。戦争が復讐の連鎖であるという一面をよく表した題名だなと感じた。

 

 演出の面でも、仲間と一緒に死線を越える軍曹の”家族愛”と、”祖国愛”を煽りながら突撃命令するだけして自分は逆方向に帰ってくSS士官(お前も戦え!)が良い対比になってたりして、この監督のそういうさり気ない描き方が好きだ。

 良い映画だった。いずれデヴィッド・エアー監督の(スーサイドスクワット以外の)他作品も観てみたい。