【レビュー】映画「レクイエム・フォー・ドリーム」 人は夢に中毒する

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 今回は2000年公開の映画、「レクイエム・フォー・ドリーム」(Requiem for a Dream)について書いてみる。原作はアメリカ人作家の小説で、邦題は「夢へのレクイエム」として邦訳もされている。既に絶版のようだが、近くの図書館などで借りることはできるかもしれない。映画の方は有名なので、まず間違いなく大手のレンタルビデオ店では借りることができるはず。安っぽい文句はあまり使いたくはないが、陰鬱な描写こそあれ、人生の中で一度は観てみるべき映画だと思う。

 

目次

1.この作品の世間的評価

2.物語の登場人物たち

3.サラの物語 

4.ハリー達の物語

5.物語の構造

6.「中毒」(依存)する理由

7.夢へのレクイエム

 

本文 10496文字 読了目安20~25分

 

 

 

1.この作品の世間的評価

 まず最初に、この映画を観たことが無い人も音楽だけは聴いたことがあるかもしれない。クロノスカルテットという弦楽4重奏のユニットによるテーマ曲が有名だ。扇情的で耳に残る旋律なので、他の映画の宣伝用のトレーラー映像に使われたりすることも多い。今回はこれをBGMにでもしながらでも読み進めてもらえればと思う。と思ったが、やっぱりもっと明るい曲でも聴いた方が良いかもしれない。とりあえずこの曲を一回聴けば、この映画の雰囲気というのが掴めることだろう。

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 21世紀の始まりと共に現れたこの映画。巷では鬱になる映画ランキングやらホラーより怖い映画ランキングやらに載せられたりと、爽やかな風評は聞こえてこない。

 こういうランキングに入れられるというのは、それだけ物語や演出技法が優れていたからかもしれないし、またランキングを切っ掛けに作品を知ることも出来るという利点はあるにはあるのだが、その代わりに何というか作品自体が色物枠のような扱いになってしまうので、個人的にはなんだかなぁと思う。

 それが、好きな映画とか心に残る映画ランキングとかなら別に良いのだが、家電製品の各性能に対する比較表のように物語を数値化して序列を付けるというのはあまり好きな行為ではない。物語の中で起きた出来事だけを取り上げて、他の作品よりどれだけ不幸だからこれは何位とか決めるのだとしたら、そんなに的外れなことはない。主人公が死んだだけでバッドエンド扱いするとかの類いも、作品に対する理解の浅さを感じる。別に作家や映画監督は、果物農家がギネスブックに載るために世界一糖度の高いイチゴを作ろうとしたりするように、世界一鬱度が高い話を作ろうだとかしているわけではない。もっと違うところに彼らが作品を生み出した目的はあるはずなのだ。

 だからそういう一面だけを殊更に取り上げてしまうと、作品に対する鑑賞の姿勢や感じ方も歪んでしまうような気がする。私がこの映画を観た限り、この映画は決して、世界一の鬱物語を作るために登場人物を出来るだけ不幸にしてやろうとして作られたような悪趣味な作品ではない。むしろ私は作者の、物語の中で人生の階段を転落していく人々への哀れみと愛情の眼差しを感じた。だからこそ、物語の題名は散った「夢へのレクイエム(鎮魂歌)」なのであり、この世界を彷徨う叶わぬ夢の安息を願う歌なのだ。

 

 あとは麻薬を扱う映画なので、反麻薬の映画だと思っている人も多いと思う。まあその側面も無くはないし、確かにこの映画を学校で学生たちに見せれば、下手な麻薬濫用防止の啓蒙ビデオより随分と抑止効果はあるはずだ。過激な描写があるのでいくらかの生徒は途中退室するかもしれないが…。だからといって、この映画が麻薬についてだけ語った映画なのかというと、私は少し違うと思う。

 

 

 

 2.物語の登場人物たち

 この物語は群像劇として描かれる。主要人物は4人。老女サラとその息子ハリー、彼の恋人マリオンと、友人のタイロン。映画版ではサラとハリーを二つの柱にして物語は進んでいく。

 物語は夏から始まり、冬で終わる。一年のうちの数ヶ月ほどの出来事というわけだ。その短い期間の中で、登場人物たちの人生は大きく変わってしまう。

 

 サラは夫と死に別れ、残る家族は不良息子ハリーしか居ない寂しい老女だ。その様子を見る限り、恐らくは平凡な主婦としてそれなりに品行方正に生きてきたのだろうことが推測できる。一人暮らしのサラは人生に孤独を感じている。彼女の唯一の楽しみは、テレビを観ること。そしてこのささやかな娯楽こそが、彼女の人生を転落させる不幸な原因となる。

 

 サラの息子ハリーは、高校卒業後はきちんとした定職にも就かず、タイロンや悪い仲間とつるんで自堕落な生活を送っている。彼は麻薬ジャンキーで、麻薬を買う金を手に入れるため、母親のアパートのテレビを事ある毎に質に出し、それをその度に母親が買い戻していることが作中で描写される。つまりは回りくどい方法で母親にたかっているのだが、母親は一人息子を愛しているので、結局そういう回りくどい形で息子に不承ながらもお小遣いをあげている訳だ。冒頭では親不孝な息子のように振る舞うハリーだが、麻薬取引が順調な中盤では母親に大型テレビをプレゼントするなど、親孝行をする一面も見える。恋人のマリオンに対しては、彼女と共に洋服店を開くという夢を持って開業準備を進めるなど、人生に対する前向きな姿勢も見える。このことから分かるように、ハリーは麻薬ジャンキーではあるが、完全な廃人というわけではない。親や友人、恋人に対する人間的な愛情をもって、人生の展望もある。今のうだつの上がらない人生から何とか幸せで真っ当な人生に這い上がろうとしている、一人の平凡な若者だと言える。

 

 ハリーには、タイロンという友人と、マリオンという恋人がいる。彼らもハリーと同じく麻薬ジャンキーである。

 タイロンは黒人系の青年で、貧しい家庭に生まれ育ち、スラムのような犯罪と隣り合わせの、かつ貧しき者は犯罪によってでしか成り上がれないような環境で生きてきたのだろうことが推測できる。作中で彼の回想の中には、幼き自分を抱く母親が現れる。それを見る限り、彼は貧しいながらも母親に愛された幼少時代を懐かしんでおり、同時に自分を愛してくれた母親に親孝行するため、いつか経済的な成功を遂げた自分の姿を見せてあげたいと思っているように見える。そして彼が経済的成功を成し遂げるための唯一の方法は、麻薬ディーラーとなって荒稼ぎすることだけだった。

 一方でマリオンは裕福な家の生まれで、親からの仕送りを受けながら仕事もせずに安楽に暮らしているようである。仕送りを続けてもらうために、カウンセリングを受けている振りをしている。何の不自由も無いように見えるが、彼女も両親との関係はあまり良くなく、心の中に孤独を抱えている。

 

 物語には大きく二つの筋がある。サラの物語と、ハリー達の物語だ。

 

 

 

3.サラの物語 

 サラはある電話が掛かって来たことを切っ掛けに、人生の歯車を大きく狂わせていく。ある日サラが電話に出ると、電話先の男は彼女がいつも観ているテレビ番組への出演権にあなたが当選したから書類を送ると言う。恐らくはイタズラか詐欺なのだが、この電話が本当だったかというのは正直重要ではない。

 サラは舞い上がり、この瞬間から夢を抱く。かつて夫や息子と共に晴れの日に着ていた真っ赤なドレスを纏ってテレビ番組に出演し、皆の注目の的となることを想像して彼女は幸福感に浸る。彼女の退屈で空虚な日常に、突如一筋の光が差してきたのだ。

 彼女は上機嫌にドレスを引っ張り出すが、太ってしまっていて入らない。そこで彼女はかつてのようにドレスを着こなすため、痩せることを決意する。ここから彼女の目標は、テレビ番組に出演する日までにドレスが着られるウエストまで痩せることとなる。

 

 サラは早速ダイエットを開始するが、上手くいかない。そもそもサラがドレスを着られないまでに太ったのには、彼女の生活習慣という原因がある。そして習慣と体重はそうすぐに変えられるものではない。作中では、サラがチョコレートをおやつにテレビショーを楽しむシーンがある。そこでサラは愛おしげにチョコレートを撫でながら、それを一つ頬張り、恍惚の表情で味わう。このことから、物語の中でサラが麻薬中毒に陥ってしまう前にも、既に彼女はあるものに中毒していることが分かる。そう、砂糖だ。彼女は砂糖の取り過ぎで太ってしまっていると思われる。甘いお菓子を食べることは少ない楽しみの一つであったのかもしれない。

 ともかく、彼女は実にならないダイエットを続けながら痩せる良い方法が無いかと悩む。そんなあるとき、ふと友人がやせ薬の話をする。病院で処方されるちゃんとした薬で、それを飲んだ知り合いが何十キロも痩せたというのだ。半信半疑で、病院を訪れたサラは薬を処方され、早速朝昼晩に飲み始める。不思議なことに薬を飲むとサラの食欲は無くなり、サラは食事が卵一つでも苦で無くなる。だが、この頃から段々とサラの様子がおかしくなっていく。

 実際のところ、この処方薬には麻薬成分が含まれていた。現実にアメリカではダイエットピルという形でこうした麻薬が病院で処方され、様々な被害がもたらされた。禁止薬物に指定されるまでの数十年の間、麻薬が病院のお墨付きの下で売られていたという恐ろしい状況だったのだ。肥満患者たちは病院で貰った薬が麻薬などとは思いもせず、安心して中毒に陥ったことだろう。現在でもアメリカではオピオイド問題という、鎮痛剤などに関する深刻な薬物中毒問題がある。日本人からすると痩せ薬を飲んだせいで麻薬中毒になるという現実味の感じられない物語も、アメリカ人にとっては極めて現実感

を伴う身近で切実な話であるわけだ。

 

 サラは食欲を失ったことで日々減っていく体重に喜びながら、その精神をもすり減らしていく。母親がダイエットピルを服用していると気付いたハリーが一度だけ忠告するも、彼女はやっと人生に訪れた充実感を捨てることが出来ずに、また病院を信用していたためにその忠告を受け入れられない。破滅から逃れる最後のチャンスを失い、更に彼女の麻薬依存は進んで行ってしまう。

 最終的にサラは赤いドレスを優に着られるほど痩せ細った代わりに、完全な麻薬中毒者となる。物事の判断が付かなくなった彼女は、ボロボロの姿のままテレビ局に乗り込んで自分を出演させるよう頼み込み、社員達の通報により彼女は強制入院させられることになる。正常な精神状態でなくなった彼女は精神病棟に入れられ、彼女の異変にやっと気付いた近所の友人たちは、サラの変わり果てた姿を見てどうしてこんなことになってしまったのかと泣いて嘆く。ハリー達も悲劇的な運命を辿る中、病院のベッドでサラは自分がテレビのショー番組に息子と共に出演し、人々の喝采を受けるという幻覚を見ながら、瞼を閉じて夢の中へと入っていき物語は終わる。

 

 

 

4.ハリー達の物語

 ハリーと友人タイロンは定職にも就かず、金が出来ては麻薬を買って自堕落な生活を送っていたが、何とか生活を上向かせようと麻薬ディーラーになろうとする。その方法とは、買ってきた麻薬に混ぜ物をして薄め、かさ増ししてまた売りさばくことで元値の何倍も儲けるというやり方だ。実際、このやり方は広く行われているらしい。重度のジャンキーになると、薄められていようがなんだろうが、麻薬ならば何でも欲しいのだろう。この方法で上手くやれば、底辺からでも大金持ちになれるチャンスがある。そうなるために絶対に守らなければならないことは、自分自身が商品に溺れないことだ。

 

 ハリーもタイロンも金持ちになりたいのだが、その理由はそれぞれ違う。

 ハリーは、恋人のマリオンと共に洋服店を開くための開業資金を稼ごうとして麻薬取引に手を出す。彼にとってマリオンと店を開くことは将来への展望であり、洋服店の開業とは二人の未来への希望の象徴である。

 タイロンは、漠然とビッグになりたいと思っている。彼は幼少期に母親に約束する。「ママ、いつか必ず偉くなるからね」。母親は「偉く成らなくても良いから、ずっとママを愛していておくれ」と答える。彼にとって偉くなる方法とはリッチになることだ、そして学歴も仕事もない彼がリッチになるには麻薬取引でもするしかない。

 

 ハリーとマリオン、タイロンは既に麻薬ジャンキーであるが、物語の中盤までは何とか平穏な日常を保っていられる。麻薬取引は順調で、ハリーとマリオンは開業への夢が実現に近付いていく期待と幸福感の中で、幸せな日々を送る。タイロンも儲けた金で家具を新調した部屋の中で、恋人を抱き安らぎと幸福に浸る。

 

 商売が順調な中、ハリーは母親に親孝行しようと大きなテレビを買って贈ることにする。久しぶりに来訪した息子ハリーにサラは喜び、二人は近況などを語り合う。ハリーは麻薬ディ―ラーだとは明かさぬものの、自分がちゃんと職について生計を立てているのだと母親を安心させる。しかし母親の様子を見て異変に気付いたハリーは、母親が麻薬成分の入ったダイエットピルを服用していることに気付く。母親が麻薬中毒に陥らないよう、ダイエットピルの服用を止めさせようとするハリーだったが、薬で痩せられていることに満足していたサラは素直に息子の忠告を受け入れることが出来ない。更にサラは自分の心の孤独をハリーに打ち明ける。今まで親不孝をして母親に不憫な思いをさせてきた負い目があるハリーは、夢を抱いて幸せそうにしている母親を見て薬の服用を強引に止めさせることが出来ないまま、母親と別れて家路に就いてしまう。これが、劇中で母と息子が会う最後の機会となる。

 

 この頃から順調に進んだ麻薬取引も雲行きが怪しくなる。ある時タイロンが逮捕されてしまい、その保釈金として今までの稼ぎをほとんど失ってしまう。その上街中の麻薬の流通も一時的に滞り、自身らも禁断症状に悩まされたハリー達は遠くの街に麻薬を仕入れに行くことにする。しかしそのためには資金が必要で、ハリーは恋人のマリオンに売春行為で金を作るように言う。この頃から二人の関係にも亀裂が入り始める。

 

 マリオンがカウンセラーと寝ることで作った金でハリーとタイロンは麻薬を仕入れに州外へ繰り出すが、上手く行かない。帰ってくる途中にハリーは麻薬を注射していた腕の傷が化膿し、痛みに耐えきれず病院に行く。病院の医師はハリーが薬物中毒者であることを察し、警察に通報してそのまま二人は出先の州で逮捕されてしまう。

 

 マリオンは禁断症状に耐えきれず、売春をして麻薬を調達するが、それでも未だハリーの帰りを待ちわびていた。再び売春に行こうとする中、ハリーからの電話を受け、今すぐに彼が帰ってきてくれるのなら売春を思いとどまろうとするマリオンだったが、彼が帰ってこられないことを悟った彼女は電話を切り、麻薬のために化粧を整えパーティへと赴く。

 

 最終的にハリーとタイロンは住まいのあるニューヨークから遠く離れた州で刑務所に収監され囚人となる。ハリーは注射跡の傷が悪化し、腕を切断しなければならなくなる。手術後、目覚めたハリーは自分の人生を悲観し、もう二度とマリオンに会うことはできないと嘆き悲しむ。

 タイロンは、刑務所の苦役と麻薬の禁断症状に耐えながら日々を過ごす。かつて母親に抱かれながら眠りについた日々を思い出しながら、寂しげに身体を丸めて眠りに就く。

 マリオンは麻薬商人の性奴隷に落ちぶれ、服屋開業のために描き溜めたスケッチが乱雑に散らばったハリーの居ない空っぽな部屋の中で、セックスパーティの謝礼として渡された麻薬をその手に抱きながら満足げに眠りに就く。

 

 

 

5.物語の構造

 こうしてあらすじを書くだけでも少々気が滅入るが、この悲劇的な物語をどのように捉えるべきか。

 

 まず、物語の大きな二つの筋は、サラの物語と、ハリー達の物語であると書いた。この二つを比較してみると、サラの方は麻薬に無自覚なままそれに蝕まれていくのに対し、ハリーらは能動的に麻薬に関わりそれに溺れていくという違いがある。とはいえ、皆悲劇的な結末を迎えると言う点では共通していて、そういう意味では作者が登場人物それぞれの生き方を特別に糾弾したり正当化しているわけではないことが分かる。主要な登場人物達は皆等しく、愚かで哀れな人々なのだ。

 他に共通点を上げれば、サラ、ハリーら共に麻薬を利用して自分の人生の夢を叶えようとする点がある。この時点で、悲劇的な結末が待つことは約束されているようなものだ。サラはダイエットピルで痩せようとし、ハリーらは麻薬を売りさばいて金を稼ごうとする。

 

 映画の中で麻薬は、それが現実で一般的に用いられる理由となる強力な快感と同じように、利用者に即効性のある非常に強力な効果をもたらす。サラは短時間で劇的に痩せることができ、ハリー達は短い期間で大金を稼ぎ出すことに成功する。つまりこの映画の中で麻薬というのは、登場人物たちが抱く夢に普通では叶わぬような速さで近付くことが出来る加速装置のような役割を果たしている。

 これは私がこの作品が単なる麻薬映画ではないと考える理由の一つでもある。登場人物たちは結果的に麻薬に中毒するわけだが、麻薬自体がもたらす直接的な快楽に依存したわけではない。それよりかは、麻薬を利用することで信じられないほど劇的に近付いていく「自分自身の夢」にこそ中毒しているのだ。更に言えばその夢に浸ることで感じる甘美な幸福感、または生きている実感というものに中毒している。突き詰めていけば、やはり快楽に中毒しているとも言えるのかもしれない。それは麻薬を取り込むことにより脳に発生する直接的な快楽か、自己実現の達成により感じる恍惚感という間接的な快楽かの違いというだけだ。

 また、単なる麻薬映画ではないと考える理由には他にも、彼らが麻薬のみに依存している訳では無いことが挙げられるが、これについては詳しく後述したいと思う。

 

 物語は夏から始まり、秋を経て、冬で終わる。一年間の3つの季節だけを通した、ほんの短い間の出来事なのだが、麻薬のオーバードーズ(過剰摂取)によって怒濤のごとく訪れる快感と同じだけの反動で苦しめられる禁断症状の如くに、中盤から物語は加速度的に悪い方向に進行していく。物語は夏、秋、冬と来て、春を待たずに終わってしまう。春が来ないというのはそのまま登場人物たちの展望の見えない境遇を表すものなのだろう。この期間の短さこそが、その中で生まれ脆くも散っていく夢の儚さをより強調している。

 

 

6.「中毒」(依存)する理由

 この物語で二つのテーマを挙げるとするならば、一つは題名にもある「夢」、そしてもう一つは「中毒」と言えそうだ。この物語をずばり、中毒についての物語ということも出来るかもしれない。

 

 物語の中では麻薬に対して中毒する様子が最も悲劇的に描かれるが、登場人物たち、特にサラは麻薬以外にも多くのものに中毒している。

 まず、サラはダイエットピルに出会う前にも既に、テレビと砂糖(チョコレート)に中毒している。世話する家族もおらず、特に趣味もないサラの生きがいは、テレビショーを見ることや、食べることしかない。男女ともに、現実にこうした老人は多いのではないかと思う。派手な演出や煽り文句でダイエットに成功した人々を劇的に称えるテレビショーは、彼女の退屈な日常に刺激をもたらしてくれる。黒い宝石のように鈍く輝く甘いチョコレート菓子たちは、彼女の味気ない日々に甘美な一時を与えてくれる。サラはこの二つを楽しんでいる時のみ、現実を忘れることができるのだ。

 

 また、他にもサラは家族というものにも依存していたことが分かる。夫と死別し息子も独立して一人きりになったサラは、アパートのお隣さんである友人達こそ居るが、それでも日々孤独を感じている。世話する相手が誰もおらず、アパートの中で日々一人で家事をこなす彼女は、何のために自分は生きているのかと虚無感に苛まれている。主婦として生きてきたサラは夫や息子の面倒を見ることに自分の人生の意味や居場所を感じていた。彼らが居なくなったことにより、彼女の心には空白ができてしまったのだろう。それを埋めたのが、テレビやチョコレート、果てはテレビショーに出演するという「夢」だった。

 

 サラに限らず、登場人物達は皆、心の空白(満たされない何か)を埋めるために何かに中毒していると考えることも出来る。例えばハリーやタイロンはうだつの上がらない人生を生きているせいで感じる劣等感や焦燥感を、麻薬を使って紛らわせているのかもしれないし、マリオンは金銭だけは送ってくれるが自分のことを親身に気に掛けてはくれない両親との関係に孤独を感じ、それをハリーと麻薬で埋めているのかもしれない。

 

 その手段の差こそあれ、このようにして人間というのは満たされない思いを代用品で穴埋めしながら、日々の心の均衡を保っていると言えるだろう。多かれ少なかれ、人は皆何かに中毒している。そして空白が大きければ大きいほど、穴埋めに必要な代用品は多く、大きく占めることになるのかもしれない。私達は幸福な人生を思い描いて夢を見るのだが、夢を見るという行為それ自体もまた心の空白を満たすためなのかもしれない。

 

 結局の所、大小関わらず夢を叶えようとしたり、心の空白を埋めようとするのは、生きているという実感をその身に感じたいからこそなのだろうと私は思う。サラが息子に語る本音は、それを如実に表しているように思える。

 

 物語の中盤、サラのもとにハリーが訪れ、ダイエットピルの使用に気付いたハリーとの口論の中でサラは本音を漏らす。このシーンは作品全体を通しても、屈指の名シーンだ。このシーンこそ、この映画の最も重要な場面であると私は考えている。テレビショーへ出演することへの憧れを語るサラだが、彼女の言葉を聞いていくうちに彼女が本当に欲しいのはテレビショーで皆に注目されることなどではなく、孤独から解放されることなのだと分かる。息子家族など、共に生活できる家族がそばに居て、孫の面倒でも見ながら平凡な日常を送るというささやかな幸せこそが彼女の本当に望むことなのだが、それが叶わない中で彼女は大多数の他人に賞賛されるテレビショーという「代用品の夢」がもたらしてくれる幸福感に浸るのだ。しかしその中でも彼女が夢見るのはやはり、皆の前で夫や立派な息子を紹介し共に喜び、抱き合うことだというのが、なんともやるせない。

 ちなみにハリーの場合も、本当はマリオンと共にいることこそが彼の一番の幸福であったことがラストからも分かる。しかし彼にはマリオンと共に幸せになろうとして見た夢のために、彼女を傷つけ永遠に離ればなれになってしまうという皮肉的な結果が待つ。金持ちになることも洋服店の開業も諦めて、ただマリオンと平凡に生きていけばそれで幸せだったのではないかと思うのだが、既にジャンキーだった彼らにはそれも無理だったのかもしれない。

 

 このようにして彼女の孤独に初めて気付かされたからこそ、ハリーは今まで母親に不安な思いをさせ、孤独な毎日を送らせてきたことに対する罪悪感を感じ、サラの夢を諦めさせてまで強引にダイエットピルの服用を止めさせることができないままに母親と別れてしまう。この場で母親の苦しみに真摯に向き合い、支え合って生きていこうとしたなら違う道もあったかもしれないが、ハリーにはそれが出来なかった。代わりに彼は帰りの車中で麻薬を打ち、罪悪感や悲しみを紛らわせてしまう。ハリーは劇中でも何度も、心の葛藤や苦痛を麻薬によって紛らわせる。これこそが、ハリーという人物が決して幸福になれない理由を最も顕著に表しているように思う。ハリーは麻薬取引という危険なビジネスに手を出したせいで破滅したようにも見えるが、私には彼の悲劇の根源的な原因は自分の苦しみと向き合う強さを持つことができなかったことに因るのではないかと思えてならない。

 

 

 誰しもが心の空白を抱え、それを穴埋めするために何かに中毒するのだとしたら、この物語の中の登場人物達もただ心の空白を埋め、ささやかな夢のために生きようとしただけである。結果としてその代用品が麻薬という危険な副作用を伴うものになってしまっただけなのだとも言える。そうすると、果たして私達は劇中の彼らを愚か者だと断罪することが出来るだろうか。

 

 世間では何かに中毒することの有害性や恐ろしさばかりが取り沙汰されるが、誰しも好きで何かに中毒したり依存したりするわけではないはずだ。皆現実と理想の狭間で、心の空白を埋めるために何かに中毒する。そして時に、いつしかその中毒性に毒され自分の本当の望みや幸福を見失うほどのめり込み、代用品だったはずの何かに人生を支配されてしまうことに悲劇があるのだ。

 だとすれば、本当に私達に必要なことは何なのだろうかと考える。中毒の危険性をいくら説いても、どれほど意味があるのか私には疑問が残る。所詮は、強い毒にどっぷりと浸からない代わりに弱い毒にじわじわと浸ることにしかならないだろう。

 私達には不安定な心や感情があり、それ故に決して何事にも一切「中毒しない」ことは無理な話だ。しかし心の空白をサラやハリーのように全て代用品で満たそうとすれば、彼女らほどまで劇的で悲劇的では無いにしても、やはりいつか何処かでほころびが出てしまうのでは無いかとも思う。だから私達に必要なのはハリーのように葛藤や苦痛をそれぞれにとっての代用品で安易に紛らわせることを少しでも躊躇しようと努力することであり、自分の心の空白と正面から向き合おうとすることでのみ、自分の本当の望みや夢、ひいては幸福を知る第一歩になるのかもしれない、と私は思う。しかし同時にこうも思う。そのように幸福や生の実感を感じたいと望むことそれこそが、不幸の原因なのではないかと。仮にそうだとしても、人というものは幸福を望まずには居られない存在である以上、選択肢など初めからないのかもしれないが...。

 

 

7.夢へのレクイエム

 この映画の悲劇的な結末を見る度に、もしどこかで何かが違えば、もう少し何とかなったのではないだろうかと考えてしまう。そう思うのは、いずれの登場人物も英雄でも聖人でも悪役でもなく、人並みに誰かを愛して、人並みにささやかな幸せを望む平凡な人々であるからだと思う。彼らは幸せになりたいと願って夢を見た結果、運命の奇妙な巡り合わせと、偶然の不幸のせいで人生の階段から滑り落ちてしまっただけなのだ。

 程度の差はあれ、ささやかな幸せのために抱いた夢は、これまでもこれからも世界で現れては消えていくことだろう。この物語はそうした夢へのレクイエム(鎮魂歌)である。そして幸せを求めるあまり不幸に陥ってしまうという哀れな人間の性(さが)に対する作者からの哀れみの歌であり、そのような性をも含めて人間というものを愛しているからこそ書ける人間賛歌なのだと私は思う。原作者のヒューバート・セルビーJrという作家の壮絶な人生と、彼がその人生の中で見つめ続けたであろう貧しく荒んだ環境に生きていた人々に思いを馳せるに、尚更にそう思わずには居られない。