【レビュー】映画「千年女優」 走り続けたい少女の物語

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アニメ映画「千年女優」について、曲解盛り沢山につらつら書き連ねる

 

目次

1.今敏監督作品

2.ストーリー

3.物語の構造

4.源也と千代子の共通点

5.「愛しの鍵の君を追い続ける少女、千代子」を演じた千代子

6.走り続ける千代子

 

本文 8402文字 読了目安 16~18分

 

 

1.今敏監督作品

  今回はアニメーション映画「千年女優」について書いてみようと思う。2010年に46歳の若さで早逝してしまった今敏監督の監督デビューから2作目の作品だ。今敏監督の作品は「パプリカ」「パーフェクトブルー」「千年女優」「東京ゴッドファーザーズ」の順で鑑賞し、どれも素晴らしい作品だったが、その中でも個人的には本作が一番好きだ。というか、今まで観たアニメーション映画の中でも「千年女優」が一番好きかもしれない。

 

 「千年女優」を監督の他作品と比較してみると、映像としての豪華さや緻密さなら代表作「パプリカ」には及ばないだろうし、ストーリーの展開としてならデビュー作「パーフェクトブルー」の方がスリリングで視聴者を引き込ませる迫力を持っている、と思う。それでもこの「千年女優」には不思議な魅力があり、なんとも心惹かれてしまう。何というか、この作品には引力がある。

 

 どうして私はこんなに千年女優が好きなのか、作品についてあれこれ書き連ねながら考えてみたいと思う。書きたいことが有りすぎて支離滅裂になりそうだが、なるべく主人公千代子について絞りまとめていけたらと思う。

  

 

2.ストーリー

 物語の核心込みの映画のあらすじを書くので、視聴予定の未見の方は注意。鑑賞済みの方も読まなくても大丈夫。

 

 主人公の藤原千代子は昭和時代に活躍した名映画女優。あるとき突然、女優業を引退して表舞台から隠れてしまった。藤原千代子の設定は昭和の大女優、原節子等をモデルにしているらしい。

 

 平成に入った現代、時の流れを受けて彼女の出演映画が撮られていた映画スタジオは閉鎖が決まり、千代子の熱烈なファンである映像制作会社の社長、立花源也は彼女のドキュメンタリー作品を制作するために、隠居生活を送る彼女の元に取材に向かう。世間から隠れるように山奥に住む千代子は普通なら取材は断っていたが、立花からの特別な贈り物があると聞き、特別に取材を受けたようだ。立花源也はこの物語のもう一人の主人公とも言える存在だ。

 

 千代子の邸宅に招かれた立花と部下のカメラマン井田がインタビューを開始すると、千代子は自分の少女時代の思い出を語り始める。ここから千代子と立花達の、共に彼女の半生の記憶を辿る旅が始まる。

 

 昭和初期の千代子は思春期の盛りで、恋することに恋しているような年頃のまさに平凡な少女であった。あるときその端正な顔立ちが映画会社の専務の目に留まり、女優業へとスカウトされる。しかし母親に反対され悶々とする千代子だったが、偶然に憲兵から逃げる画家の男を助けることとなる。恐らく思想犯、政治犯として追われていたこの男は、千代子の家の蔵に匿われる。

 蔵の中で千代子と語らう男は、描きかけの画をいつか故郷に帰り仕上げるのだと言う。千代子はその男に初恋をし、男と再会を約束する。男が首に提げていた鍵に千代子が気付くと、彼は一番大切なものを開ける鍵なのだと言う。千代子はまた明日も男に会いたいために、その答えを次の日へと取っておくことにする。

 

 しかし翌日、迫る憲兵の追跡から逃れるため男は鍵を残して蔵から去ってしまう。男に会うために必死に駅へと走る千代子だったが、満州へと逃れた男に結局追いつくことは出来なかった。千代子は満州に行った男を追いかけるために、スカウトを受けて女優になることを決める。新作映画が満州での撮影だったからだ。このように、千代子は初恋の男に会いたいという理由だけで特に思い入れもなく女優に成っている。この時から、千代子の鍵を残していった初恋の人、「鍵の君」を追いかけ続ける人生が始まる。

 

 気鋭の新人女優として主演をこなす傍ら「鍵の君」を追いかけ続ける千代子だったが、中々「鍵の君」には辿り着くことが出来ない。追いかけ、追い着いたかと思えば、また遠のいていくその繰り返しが、千代子が主演した作品のシーンと重ね合わせて幻想的に描写される。年老いた千代子の記憶の中では、鍵の君を追いかけていたことと映画の役を演じていたことに区別がなかったのかもしれない。

 

 千代子が最後に目にした「鍵の君」は政治犯として収容される寸前の姿で、それ以降「鍵の君」の消息は途絶えてしまう。第二次世界大戦が終わり、戦後復興の中で女優業を続けながらも千代子は「鍵の君」の面影を探し続けるが、彼に会うことは出来ない。

 

 いつしか千代子も中年に差し掛かり、独身のままの彼女を心配した母親は他の男性との結婚を勧めるが、千代子は「鍵の君」への想いを断ち切ることが出来ない。そんな中、ある時千代子が肌身離さず大事に持っていた「鍵の君」からの預かり物である鍵が無くなってしまう事件が起きる。これを機に、千代子は諦めるように映画監督の大滝と結婚する。

 

 映画監督の妻として生活し始めた千代子はあるとき、夫の書斎から無くしたはずの鍵を見つける。実は、千代子に「鍵の君」への想いを断ち切らせるために大滝が隠していたのだった。それを知った千代子が大滝に詰め寄る中、千代子の元にかつて「鍵の君」を捕まえるために何度も千代子の前に表れた憲兵が現れる。年老いた退役軍人となった彼は、千代子に「鍵の君」から託された手紙を渡す。手紙を読んだ千代子は、「鍵の君」との再会を誓った約束の場所、彼の故郷の雪原へと駆け出すのだった。

 

 脇目も振らずに彼の故郷へと辿り着いた千代子だったが、そこでも「鍵の君」に会うことは叶わない。それでも千代子は、「鍵の君」に会うためにどこまでも追いかけ続けると誓う。千代子の映画女優人生として最後の作品となるSF映画の撮影中、ふとガラスに映り込んだ自分の姿を見た千代子は、撮影現場から逃げ出してしまい、その後唐突に女優業を引退する。このとき千代子が落としていった鍵を、立花は後生大事に持ち続けて、今回千代子に返すために持ってきたのだった。当時のことを振り返る千代子は、「鍵の君」に老いた自分の姿を見せたくなかったのだと立花に話す。

 

 インタビューも終わりに近付いた頃、千代子の体調は急変し彼女は病院に運ばれる。医師から彼女はもう助からないことを聞いた立花はうなだれ、落胆を隠せないで居たが千代子からは感謝を告げられる。立花が鍵を持ってきてくれたお陰で、再び思い出の扉を開くことが出来た、また「鍵の君」を追いかけることができると。

 涙を流しながら、きっと「鍵の君」に会えるでしょうと言う立花に、千代子は本当はどちらでもいいのかもしれないと言い残す。肉体から魂が離れ、再び「鍵の君」を追う新たな旅路に就く中で、彼女は気付く。私は「鍵の君」を追いかけている自分のことが好きだったのだと。

 

 

 

3.物語の構造

 この物語は一見、純粋無垢な少女の一途な恋を描いた作品という皮を被っている。予告編などを見ても、可憐な少女時代の千代子の姿を全面に押し出していて、そういう映画だと思わせて観客を呼び込もうとしていたのだろうと思う。しかし実際観てみると、何だか途中から雲行きが変わってきたなぁと鑑賞者は感じ始め、ついに最後の千代子の一言で脳天に一撃を食らう。ああ、そういうことだったのかと。男女の純愛映画だと思って観た人などは期待を裏切られ何とも言えない気分になったことだろう。とは言っても、劇中でそういった描写はそこかしこに散りばめられているので、観ている最中でも気付く人は気付くだろう。最後の台詞は万人に分かり易くするために敢えて本人の口から言わせたのではないかと思う。

 

 「千年女優」は物語の映像描写の方法がかなり特殊で、鑑賞者は自分は一体何を見ているのか混乱しがちになると思う。なぜ立花達は千代子の記憶の中に一緒に居るの?とか、千代子の主演した映画の中の話と現実の出来事がごちゃ混ぜになっていてどれが現実なの?と疑問に思った人も多いだろう。実際一回観ただけでは分かり辛い部分も多い。それでもこの複雑に入り組んだ描写を理解しやすくなるような工夫も多く凝らされている。複雑ではあるが、よく観ればちゃんと全て語られているという点ではとても親切な映画だと思う。

 

 作品の理解を助けるための演出の配慮は至るところにモチーフとして表れる。まず千代子という名前。執拗に表れる鶴。千代子の主演映画に繰り返し違う役を与えられ現れる現実世界の人々。役を通して次々と時代を飛び越える千代子。他にも糸車やら睡蓮やら強調された赤色など、その意味を考えてみると面白い。

 

 「千年女優」は、千代子という女優の一生を立花達と一緒に追体験するという方法で物語を演出している。千代子の半生を傍観する立花達は、千代子の物語を客観視している私達の代わりと言うことも出来る。立花は千代子のファンなのでかなり千代子寄りの立ち位置だが、カメラマンの井田はより観客寄りの立ち位置にいる。だから井田は作品内で折に触れ微妙に寒い「ツッコミ」を入れてくれるのだが、このツッコミには千代子の記憶に頼ったインタビューの内容を客観視するという役割がある。本作はアニメーション映画なので、ジブリなどを見慣れた観客たちはややもすると非現実的な描写をそういう(ファンタジックな)世界観なのだなと勘違いしてしまう。そこに井田くんが突っ込んでくれることによって、鑑賞中の私たちは「ああ、今観てるものはやっぱりどこかおかしいと思っていいのだな」と理解できる。

  

    インタビューの中で年老いた千代子が立花達に語る彼女の半生は、大きく二つに分けられる。「映画女優」としての人生と、「鍵の君を追いかけ続けた少女」としての人生だ。こうして映画を観て楽しむだけの我々一般人からすると、この二つは全く別の体験であるように思えるが、千代子にとってはこの二つの人生は混ざり合い切り離すことのできない人生体験であり、別々の記憶として分けて話すことは出来ないものとなっている。千代子が自分の過去を語ろうとするときに映画と現実が入り混じってしまうのは、別に彼女が高齢で記憶が曖昧になっている訳ではなく、演じる側の人間であった彼女にとっては役を演じていた映画も現実であり、現実もまたある意味「千代子という役を演じた映画」であったからだ。作品のタイトルは「千年女優」である。千代子は天性の女優であったのだと私は思う。

 

    千代子にとっては映画女優になることは特に目指していた夢でも何でもなく、鍵の君を追いかけるための手段であったことはストーリー紹介の中で既に書いた。そして千代子は天性の女優であったと先程述べた。それは、映画女優になる前から、千代子は既に女優(役者)であったのだということを意味している。映画女優になる前から無意識のうちに、千代子は自分自身に既に役を与えていたのだと私は考える。千代子が初めて演じた役とはすなわち、「愛しの鍵の君を追いかけ続ける少女、千代子」という役だ。そして千代子はその役を生涯を懸けて演じ続ける。ここでいう女優は映画女優、ドラマ女優などと言う狭い枠には収まらない、何かを演じる者そのものを表すようなより広い意味での概念だと考えて欲しい。彼女は人生全てを懸けて演じられる究極の役者なのだと言ってもいい。千代子が演じた「少女、千代子」については、後でさらに詳しく書いていく。

 

 

 

4.源也と千代子の共通点

    物語のもう一人の主人公とも言うべき存在、立花源也について。立花は千代子へずっと憧れに近い片想いを抱き続けてきた男で、千代子が女優を引退して数十年経ってもその想いは変わらない。物語の中では千代子に鍵を渡すことで、彼女の記憶の扉を開くという役割を持つ。

 

 彼は日陰から一途に千代子を想い続けるも最後まで報われぬ不憫な男に見えるかもしれないが、実のところ千代子も同じような境遇ではある。千代子もまた鍵の君に片想いし続け、最後まで恋が実ることはない。鍵の君も千代子を好きだったのではないかと思う方もいるかもしれないが、「鍵の君」が千代子に当てた手紙には「親切な娘さんへ」とあることからも、鍵の君にとっては千代子は愛しき君ではなく、あくまでも親切な娘さんでしかなかったことが見て取れる。

 

 物語全体を眺めてみても、両想いの男女が一組も出てこない。千代子も源也も片想い、抱く想いは一方通行なものでしかないが、だからといって無意味なものではなく、その想いを糧にして生きている節がある。少女千代子の片想いは、藤原千代子を大女優にさせてしまうほど強いエネルギーを持っていた。源也にも少なからずそうした面があったと思う。

 

 作中の二人を見ている限り、この映画が決して成就した恋の美しさや、心を通わせる素晴らしさを描こうとしていないことは明らかだ。では成就しない恋の切なさかと言えば、それもまた少し違うと感じる。むしろこの作品が本当に描き出したかったのは、何かに恋い焦がれることにより人の内より生み出される爆発的なエネルギー、生命力のようなもので、それを千代子の人生を通して表現したように私は感じる。

 

 結局、千代子は鍵の君という虚像を追いかけ、源也は女優藤原千代子という偶像を愛した。この二人にとっては、恋する対象さえあればそれで十分だったのではないか。相思相愛でなくとも、相手が実際は生きてさえいなくとも、その対象を想い続けられることそれ自体が一番重要という訳だ。千代子にとっては鍵の君を追いかけ続ける理由さえあれば良いのだということが、劇中描写を注意深く観察すればよく分かる。そしてもっと言えば、千代子はいつまでも鍵の君を追いかけていたいのだ。これについてこの後更に詳しく書いていきたいと思う。

 

 

 

5.「愛しの鍵の君を追い続ける少女、千代子」を演じた千代子

 千代子は生涯を通して「愛しの鍵の君を追いかけ続ける少女、千代子」という役を演じたのだと私は解釈した。そしてそれが彼女にとって人生で最も重要な役だったのだと考える。そう考えれば、千代子の回想の不可解さも理解できる。映画女優藤原千代子としての仕事も、彼女にとっては自分が演じていた「少女、千代子」を主役とする人生を懸けた映画の、劇中のイベントの一種でしか無かったのだ。鍵の君は主演男優であり、現実に出会った人々は皆脇役、そして世界そのものが壮大な舞台セットだったというわけだ。千代子の全ての体験は「鍵の君を追いかける少女の物語」を美しく装飾する役割を果たしたと言える。

 

 千代子は劇中の二つの機会にその役を演じることを中断してしまう。一つは鍵を無くしてしまった時と、もう一つはヘルメットのガラスに映る自分の姿を見てしまった時だ。

 何故鍵を無くした千代子はあそこまで動揺するのか。それは恐らく千代子にとって、あの鍵こそが唯一にして最も重要な意味を持つ小道具であり「少女、千代子」という役にとっての数少ないアイデンティティであったからではないかと思う。鍵を持っていることで千代子は「少女、千代子」で居られるというわけだ。「少女、千代子」には「鍵の君」に預かり物の鍵を返さなければいけないという役割があり、だからこそ千代子は鍵の君を追いかけいても良いのだ。このように何の変哲も無い鍵が重要性を持ってしまうのは、裏を返せば鍵の君と千代子の関係が実際はそれほどに希薄であることを表していると言える。

 中年の千代子がガラスに映る自分の顔を見て逃げ出してしまったのは、おそらく役に入り込んでいた千代子の自己イメージと、現実の自分の姿の乖離に耐えられなかったからであろうと思う。この時の千代子を見ると、髪型はまるで思い出したかのように少女時代のおかっぱ姿に戻っているが、顔つきは明らかに変わってしまっている。

 千代子が度々見る老婆の幻影の正体は、映画の終盤で自分自身であったことが分かる。老婆の幻影は美しさを求める女優という存在自体のなれの果てと解釈できる。若く美しかった頃の自分を愛おしく思いながら、同時に老いて醜くなった自分と比較して嫉妬し憎しみを抱く。千代子の先輩女優の詠子も若き千代子を羨み嫉妬するが、彼女にとって若き千代子は映画界に入ってきたばかりの自分自身と重なる存在だ。千代子にとって、このまま女優を続ければ詠子のようにいつしか自分も幻想の醜き老婆に成ってしまうと予感したのかもしれない。美意識の高い千代子は、自分がそうなることに耐えられず映画女優を辞め、そして「少女、千代子」という役も降りてしまうのだ。

 

 立花から再び鍵を渡された千代子は記憶の扉を開けて「少女、千代子」という役を思い出す。そして立花達と共に自分の半生を振り返った千代子は、今際の際にやっと気付く、自分がなぜ「少女、千代子」を演じ続けたのかを。

 

 

 

6.走り続ける千代子

 では、千代子が人生を懸けて鍵の君を追い続けたのか、その理由というものを最後に考えてみたいと思う。

 ここからは大変な曲解をするつもりだ。しかし作品を繰り返し見るうちに、この解釈が私にとっては最も腑に落ちる結論となった。

 

 すなわち、千代子は「走っている自分」が一番好きだったのではないかということだ。更に正確に言うならば、彼女にとっては「何かを追いかけて走る自分の姿」こそが一番美しい姿で、またそうしている時こそが一番幸福だったのではないか。そもそも千代子というのは自分では意識していないが、相当なナルシシストであったように思う。そしてこの映画もそうしたナルシシズムを否定するというより、むしろその自己愛から生み出される爆発的な人間のエネルギー、輝きのようなものを肯定しているように見える。

 千代子の回想の冒頭を思い浮かべて欲しい。そこで千代子がまず思い浮かべるのは、中学生の自分が運動会で走る姿だ。劇中の映像はほとんどが千代子の回想だが、千代子は記憶の中から思い浮かべるのはいつも走っているシーン。つまり、千代子の記憶に最も印象深く残る場面は決まって走る姿であり、それこそが千代子にとって美しい思い出だったというわけだ。つまり、千代子はいつも何かを追いかけ走っていたかったのだ。見事な走りっぷりだし、多分生まれつき運動神経も良いんだろう。

 そして千代子は鍵の君と運命的に出会い、自分自身に先の役を与える。こうして、鍵の君に恋い焦がれ彼を追い続けることで、走り続けるという行為(それは物理的にも、精神的にも)に世界で最も美しくロマンティックな意味と理由を与えることに成功したのだ。千代子は鍵の君を永遠に追い続けることで、永遠に美しく輝き続けることが出来た。先輩女優の詠子も劇中で、「一人の男を追いかけていつまでも若いままのあんたが羨ましかった」と千代子に言う。若さとはすなわち美しさのことだ。

 千代子は自分でもそのことに気付いていたからこそ、会える可能性は絶望的に低いにもかかわらず鍵の君を追い続け、追い続けていたかったからこそ手紙を渡しに来た傷の男の話も最後まで聞きはしなかった。鍵の君が死んでしまうと、「少女、千代子」の物語が終わってしまうからだ。

 さらにダメ押ししてみる。「鍵の君」の顔はいつも影に隠れている。これは「鍵の君」が永遠に捕まえることの出来ない影であることを表しているようにも思えるし、また千代子自身の記憶が薄れていることを示しているようにも見える。そして何より描かないということは、それが見えなくても問題ないということだ。劇中ではどんな顔つきかもよく覚えていない相手のことを「今でも日に日に好きに成っていくんだもの」と千代子は言い放つ。普通そんなことがあり得るだろうか。老いた千代子はあの人の顔が思い出せないと言って泣くが、正直な所、鍵の君がどんな顔をしていたか、もっといえばどんな人間だったのかは、千代子にとって最初からそれほど重要ではなかったように思うのだ。

 

 以上より私が至った結論は、まず千代子は常に美しくあろうとする天性の女優であったということ。その彼女が最も美しいと感じる自分の姿は何かを追いかけ走り続ける姿であり、そして彼女は人生を最も美しく生きるために「愛しの鍵の君を追いかけ続ける少女、千代子」という役を無意識的に自分に与え、生涯を懸けてそれを演じた、ということ。

 

 死の間際の千代子が幸せそうだったのは、死によって現世から解き放たれ、再びあの世に居る「鍵の君」を追いかけることが出来るからだと考えることもできる。千代子にとってはそれは美しいことなのだ。

 

 

 最後の台詞は文面だけ見ると単なる恋に恋するナルシシストへの皮肉のようにも見える。しかし上記の様に曲解した私からすると、この言葉は自分自身の理想の生き方を追い求め、生涯を通して自己実現を目指した一人の女性の、自分の人生に対する最大限の肯定の一言であったのだと思える。

 「だって私、あの人を追いかけてる私が好きなんだもの」

 

 

 余談だが、最後の場面で千代子が宇宙に飛び立つのは「鍵の君」が故郷の雪原を「遠い星の世界に居るよう」だと千代子に話したことに由来している。鍵の君はいつか故郷の雪原(遠い星の世界)で千代子との再会を約束する。劇中で千代子はまず月に行ったが、そこにも鍵の君は居なかった。そこで千代子は今度は宇宙船に乗り込む。発進した宇宙船はその描写から超光速のワープをしていることが分かる。つまり千代子はこれからワープ航法で月よりも遥かに遠い星に鍵の君を探しに行くのだということを示している。太陽系の先へ、銀河の果てへ、千代子はどこまでも飛び続けることだろう。遠い星の世界で待つ鍵の君を追いかけて。