【レビュー】映画「KUBO/クボ 二本の弦の秘密」 ストップモーションアニメの極北

「極北」

1 北の果て。北極に近い所。
2 物事が極限にまで達したところ。

ーーーデジタル大辞泉の解説より引用ーーー

 

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1.ストップモーションアニメというジャンル

 私はアニメーション映画一般が好きで(動いてるところ観てるだけでも楽しい)、その中でも本作のようなストップモーションアニメというジャンルは特に好きだ。この手法はまず第一にとんでもない手間がかかることと、撮影方法も特殊なので作品自体がそもそも少ないのだけれど、その中でも一番好きなストップモーションアニメは「ティムバートンのコープスブライド」。そして二番目に好きなのは「コララインとボタンの魔女」。

 

 本作を制作したライカという会社の名前はこの「コラライン」で知った。そのあと同じく同社制作の「パラノーマン」も観たがどちらも本当に素晴らしい作品だった。アニメーション表現だけに限ると、「コラライン」の頃は十分に高品質だがまだコマ撮り特有のぎこちない感じも残っていて、昔ながらの雰囲気があった。それが「パラノーマン」になると、フルCGアニメと比較しても遜色ない滑らかなアニメーションや演出に進化して、ストップモーション手法もここまで来たのかと本当に驚かされた。実はストップモーションアニメが好きなのに「パラノーマン」を長らく観ていなかったのだが、それには理由があって、てっきりこの映画をフルCG映画なのだと勘違いしていたからだった。それほどにスゴい。

 

 ストップモーションアニメというと「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」が一番有名だと思うが、あの作品で時間が止まっている人がライカの最近の作品を観たらアニメーションの進化に驚くことだろう。

 このストップモーションアニメという表現技法は3Dプリント技術の恩恵を多分に受けている。昔は数十種類、数百種類しか用意できなかったキャラクターの表情が、今では数万種類以上も用意することが出来るようになった。

 そして、そうした新技術を積極的に導入してストップモーションアニメを進化させてきたのがライカ社だ。(カメラのライカ社とは無関係)ライカは現在、間違いなく世界のストップモーションアニメ界をリードしている唯一無二の会社だと言えるだろう。

 

2.「KUBO」制作の背景邪推 

 ストップモーションアニメの技術についてばかり書いてしまったので、「KUBO」に話を戻そう。

 日本をモチーフにしたストップモーションアニメという風変わりな本作、監督しているのは実はライカのCEOだ。

 CEO自ら監督している映画というのも中々珍しいが、このライカのCEOのトラヴィス・ナイトという人は調べてみると更に面白い経歴の人だ。あのナイキの創業者の息子で、ライカという会社もその父が経営している。

 だからといって七光りのボンボンと言うわけでは無くて、元々彼がストップモーションアニメーションを学ぶ為にアニメーターとして入社した「ウィル・ヴィントン・スタジオ」という会社が経営難に陥ったのを、彼の父が買い取って社名を変えたのが「ライカ」なのだ。彼はその後もアニメーターとして所属し続けることができた。お父さんが、息子の夢が潰れないように助けてあげたんだろうなと思う。

 だから彼は根っからのアニメ職人、技術畑の出身で、経営者の息子だからCEOもやることになったのだろう。大富豪のお父さんがパトロンの芸術家と言っても良いだろうか(笑)。そう考えると、才能と機会が見事に巡り逢えた幸運なケースに思える。

 彼はライカのデビュー作「コラライン」の頃から作品制作の中核に携わっていたようだが、とうとう自分自身が監督を務めて制作に乗り出したのがこの「KUBO」だった。自ら監督を務めるということは、この作品に並々ならぬ思い入れを持っていたのだろうと思う。彼は日本文化に興味があったらしい。きっと、今まで自分が学んできたアニメーション技術と好きなものを併せて、本当に自分が作りたいものを作ろうとしたのだろう。

 だから本作を鑑賞していても、監督の日本文化やストップモーションアニメに対する愛着を感じることが出来るし、自分の好きなものを詰め込んだものでありながらも、それでいて新しい何かを生み出そうという意気込みも感じられた。

 

3.「KUBO」のアニメーション

 ストップモーションの技法については、タイトルにも書いたが今存在する中では限りなく極限のクオリティに迫っていた。凄すぎて、もはやストップモーションなのかフルCGなのか見分けが付かなくなってきた。

 ここまで凄くなると、コマ撮りのあのぎこちない感じが好きな人からすれば、ちょっと綺麗すぎるように感じるかもしれない。特撮の方がフルCGより味があるとか、ああいう感覚だ。私は少しだけそう感じた。

 一方で、今の技術だからこそ見られた素晴らしい表現にも感動している。人物の細やかな表情や、三味線の指の動き、小鳥の群れ、折り紙の表現などは本当に素晴らしかった。実際に巨大パペットを作ったらしい巨大髑髏(どくろ)に関しては、もう偉業のレベルだ。

 技術が進むというのは大方利点の方が多いが、代わりにある種の味が無くなってしまうこともあるのだと感じた。そうしてまた新しい表現に生まれ変わっていくことが、表現そのものが進化していくということなのだろう。

 

 4.「KUBO」のストーリー・価値観

 子供向け作品であることを加味しても、残念ながら話の運び方に関しては少々雑にも感じられ、展開にもあまり斬新さを感じられなかった。ただし、これはストーリー全体を通しての価値観などが陳腐だと言うことではない。その点、価値の相違という難しい問題を、小さな子供にも咀嚼できるように上手く描写していると思う。

 

 世界観は日本文化をベースに非常に良く考えられている。

クボは月の世界の祖父、叔母から追われるが、月の世界とは、苦しみも死もない世界、すなわち”あの世”だと思っていいだろう。

 この映画を観ていてすぐに思い浮かんだのはジブリの「かぐや姫の物語」だった。地上の世界(現世)と月の世界(あの世)の存在同士が相容れないという点で二作品は共通している。

 クボの母親はハンゾウ(生の世界)に恋をしてしまった月の人であり、まるでかぐや姫のようでもある。クボが折り紙を操れるのも彼が月の人の特殊な血を引いているからであり、クボは生まれた時から特別な存在となるべく運命づけられている。

 月に関する描写一つ見ても、日本文化をよく研究した上で作られていることが感じられた。

 

 ただせっかく素晴らしい世界を用意できたのに対して、そこで紡がれた冒険の物語は継ぎ接ぎの寄せ集めのようにまとまりが無く感じられた。武具集めのシーンの数々はアニメーションの見せ所でもあったが、ストーリーの観点からはあまり必要性が感じられず、どちらかというと撮りたい場面が先にあって理由は後から付けたような、冒険の動機として取りあえず武具集めさせとくか的な、そんな風に感じられた。

 

 旅の仲間が実は自分の両親であるというのも、日本語吹替版を観るとクボの母親とサルが特徴的な声を持つ同じ声優が当てているのですぐに読めてしまった。両親の死の必然性についても、あまり感じられなかった。

 

 

 と、細かな不満はここまでにして、私が本当に語りたいのはこの映画の核心と言える物語全体を貫く価値観、死生観についてだ。

 

 灯籠流し、旅の道中に空を飛ぶサギの場面、繰り返される思い出についての会話など、映画の中にちりばめられたメッセージを拾っていくと、「KUBO」における死生観が見えてくる。

 人間は肉体的な死を迎えようとも、それで存在が喪失するのではなく残った者の思い出の中に生き続ける。それは一つの物語の終わりであり、また始まりである。人間の生死の営みとは、クボが三味線をかき鳴らしながら歌う物語のようなものなのだと。そういう意味では、誰かの記憶となって人間の魂は永遠に生きるとも言える。自分の肉体が死んでしまっても、思い出となって誰かの中に自分は生き続けられるということだ。そして大切な人を慰め見守ることが出来る。それが地上の人間の死生観だ。

 

 対して、祖父である月の帝(これは良い訳を付けたと感心した。英語ではmoon kingと言っている)はクボに、月に行けば物語を超えた存在になれると言う。すなわち不老不死であり永遠に生きることだが、クボたちが語るそれとは質が違う。月の世界における永遠の生とは物質的に自分自身が生き続けることであり、死を克服することで消失から逃れようとする。自分自身が生き続けることでしか自分の存在を保てない月の住人は極めて自分本位な存在となり、欲望を満たすために地上の人々を圧迫してハンゾウと争ったのかもしれない。

 また、月の住人はそもそも地上の人々の生死の営みを苦しみとしか見なしていないのかもしれない。不老不死の者からすれば、有限の命こそが苦痛の根源であるというわけだ。月の住人を邪悪に描くことで作者がこの価値観に賛同していないことは明白なのだが、作品内では掘り下げが浅いためこの見解の相違に決着が付いているとは言いがたい。

 

 劇中では月の帝がなぜ孫息子の目を欲しがったのかは明確な理由が述べられていない。クボは人間の優しい心を見せたくなかったからだと言うが、自身に反旗を翻した娘と娘婿に対しては容赦なく命を奪ったのに対し、クボには月の世界に連れて行こうとする祖父としての情も見せる所を見ると、月の帝は彼なりにこの世界の悲しみや苦しみを可愛い孫息子に見せたくないとも思ったのかもしれない。

 

 最後にクボとの戦いに敗れ力を失った月の帝は、右目が失明しており左目がクボと同じ模様の目をしている。恐らくこれはクボが失った左目だと思われる。これは、月の帝が地上の人々と同じ有限の命を持つ人間に成ったことを意味する。なぜなら劇中ではクボ、母親、人間の姿に戻った父ハンゾウ、街の人々など、地上の人間は皆同じ模様の目をしているからだ。(クワガタに成っていたハンゾウは目の中心が白い。これは呪いで自分を見失っていたことを表しているのかもしれない)

 

 月の帝はクボに苦しみを見せないために目を奪おうとしたが、最後は自分自身がクボの片目を受け継ぎ地上の人間となる。そしてその時に初めて見ることになるのは、憎しみでも苦痛でもなく、クボと人々の優しさであった。

 クボは戦いの衝撃で記憶を失ってしまった祖父の記憶の空白を、両親を殺された憎しみや恨みで埋めるのではなく、代わりに親切な人間だったのだという優しい嘘の記憶で塗り固めることにする。

 

 個人的にはこの結論はあまり好きではない。自分の価値観を押しつけてクボの両親を殺しておきながら、都合良く罪の記憶を失ってお咎めなしにみんなに受け入れられるのはおかしいだろうと最初は思ったが、考えてみれば月の帝は不老不死でなくなってしまっただけでも報いは十分に受けているとも言えるだろうか。ただ映画の哲学からすれば、地上の人々の有限の生にこそ価値を見出しているのでこれは果たして報いと言えるのか…。

 

 ともあれ仏の心を持ったクボや地上の人々に暖かく迎えられた祖父は、これから偽りの記憶ながら新しい自分を受け入れて幸せに余生を過ごしていくことだろう。ここに月の帝の憎しみの物語は終わり、クボの優しい祖父としての新たな物語が始まる訳だ。最後に月は陰り、月の時代は終わったことが示される。クボは両親の思い出に寄り添われ、水に浮かぶ灯籠が死者の思い出を歌うサギと成って飛び立っていくのを見送りながら物語は終わる。非常にすっきりと着地した結末だ。

 

 5.おわりに

 この映画はストーリーよりも画そのものについて語っても良かったが、ストーリーも思いのほか興味深くつい筆が進んだ。アニメーションの方は、言葉は要らないほど文句なしに素晴らしい。一度観れば素晴らしいアニメーションを楽しめ、二度観れば更に深く物語を理解できることだろう。

 

 技術的な観点で見れば、ストップモーションアニメとしては間違いなく史上最高の作品だろう。ライカは次回作ではもっと凄いものを作ろうと意気込んでいるだろうが、なんせこんなに凄いものを撮ってしまったのだから、これからの彼らにとって最大のライバルとは自分たち自身であることは間違いない。

 

 またお気に入りのストップモーションアニメが一つ増えて嬉しく思う。次作も首を長くして待つつもりだ。